2014年



ーー−7/1−ーー 人権教育研修会

 
 
この四月から二年間の任期で、この地域の公民館長の役を仰せつかっている。ちなみに、この公民館に属するのは約240戸である。公民館長は、自動的に安曇野市の人権教育推進委員に任ぜられる。その全体会議が先日開催された。会議はほとんどお定まりというような内容だったが、後半に研修会という名目で講演があった。これがなかなか、興味深いものだった。

 講師は、いくつかの大学で英語学の講師をしておられる先生で、幼い頃病気で両眼の視力を失ったという障害者の方だった。テーマは、障害者の視点からの人権教育。

 障害者の立場から見た社会、障害者に対する世人の行動など、当事者が語る言葉は重みがあった。よく「目が見えなくて何が一番困りますか?」などと聞かれるが、物心つく前から視力が無い物にとっては、特に困った事など無い、という発言には考えさせられた。比べるものが無ければ、不自由など感じないと言うのである。

 障害者に関する事を離れた話にも、興味深いものがあった。「人権が跋扈して人格が滅びる」とはまさに現代的なテーマ。また、「コミュニケーションとは、自分の物語を持ち、それを他人の物語に重ねて共有する事である」という見解には、頷かされた。

 最後に、ある中学校で、卒業する生徒たちに対して行った講演の話になった。

 「余計な事は言わない。ただ、これだけは覚えていてくれ」と言って生徒たちに伝えたのは、人が「唯一無条件に持っている権利」、「唯一持っているべき義務」そして「唯一持ってはならない権利」について。さあ何だろうと考えたら、直後に答えが示された。それは順に「他人を幸せにする権利」、「自分を幸せにする義務」そして「他人の幸せを奪う権利」であった。

 なるほど、他人を幸せにする権利なら、「権利を主張するあまり、人格が滅びる」という事は無いだろう。




 
 
ーーー7/8−−− 愛宕山登山


 千葉県の最高峰は、愛宕山である。標高408.2メートル。私が現在住んでいる信州安曇野の土地は、標高625メートル。千葉県で一番高い場所は、我が家の敷地より200メートルも低いことになる。

 私が若い頃勤めていた会社は、千葉県に事務所があった。その会社の山岳部の月例山行で、愛宕山を登ることになった。千葉県の最高峰に登ってみようと言う企画である。事前に愛宕山について調べたら、山頂付近は自衛隊のミサイル基地となっている事が分かった。それでも、現地まで行って頼めば、中に入れてくれて、山頂を踏むことが出来るだろうと、楽観的に考えていた。

 記録によれば、登山を実施したのは1982年の2月。登山と呼ぶには大袈裟な、日帰りのハイキング。2月と言えば真冬だが、南房総は暖かい。十数名の若い男女の参加者を得て、山行は賑やかにスタートした。

 内房線の駅からバスに乗り、途中で降りて愛宕山に向かった。なにしろ標高が400メートルほどの山である。大した事も無く、山頂の近くまで達した。立派な車道を歩いて進んで行くと、予想通りフェンスが現れた。道路がフェンスを横切る所にゲートがあり、兵隊姿の若い自衛隊員たちが警備をしていた。ゲートに近づくと「ここから先は立ち入り禁止だ」と言われた。

 パーティーのリーダー格の人たちが交渉を始めた。「我々はただの民間人であり、登山を楽しんでいるだけだから、山頂まで行かせて欲しい」と言ったが返事は「ノー」。次いで「それなら代表者だけでよい。しかも監視付きでよいからどうか」、さらに「何も持たず、丸腰ならどうか?」、「手錠に目隠しでもダメか?」などと条件を出したが、いずれも「ノー」。逆に「ここまで来たのなら、頂上に登ったのと同じだよ」などと乱暴な言い方をされて、険悪な雰囲気になった。しばらく押し問答をしたが、向こうは折れる気配が無い。

 そこへ幹部とおぼしき制服姿の自衛隊員を乗せた車が上がってきた。窓を開けて顔を出し、「どうしたのですか?」と聞いた。我々が状況を説明すると、「ここは機密上重要な基地なので、部外者の立ち入りは規則で固く禁じられています。残念ですが、お引き取り頂くしかありません」というような事を、丁寧な口調で言った。それを聞いて、我々は引き下がることにした。

 千葉県の最高峰の頂上を踏めなかったのは口惜しかったが、ハイキングとしては楽しい一日だった。愛宕山から東に続く尾根を辿り、鴨川まで歩いた。太平洋を見ながらの稜線歩きは、いつもの山行とは違った風情で、面白かった。安房鴨川駅の辺りで食堂に入り、海産物を肴に打ち上げの宴を設けた。そしてミサイル基地の悪口などを言いながら、したたか酒を飲んだ。最後はすっかり良い気分になって、列車に乗り込んだ。

 最近になって、愛宕山をネットで調べたら、こんな記述があった、「登頂する場合は事前に施設宛に申請しなければ、三角点まで行くことができない。全国の各都道府県の最高峰の山で唯一、自由に登ることができない山である」

 現在では、それなりの手続きを講じれば、山頂まで行けるようだ。この30年ほどの間に、少しは自衛隊基地も登山者に対して理解を示すようになったということか。




ーーー7/15−−− 初孫誕生


 出産のため、5月の連休から帰省している長女が、7月6日に日付が変った直後の深夜に産気づいた。ちょうど週末で長女に会いに来ていた婿殿を伴い、家内が病院まで送って行った。私は翌朝に地区の行事を控えていたので、自宅に残った。しばらくして電話があり、生まれそうなので入院するとの事だった。

 私は朝から、地区の社会福祉協議会が行う、「一人暮らしの老人に手作り弁当を配る」という行事に参加した。と言っても、実際に仕事をするのは、ほとんどが女性軍。私は副会長と言う立場で参加しているだけで、しかも初めての事なので、ただ立って見ているだけ。公民館の厨房を出たり入ったりしながら、気持ちは娘の事で落ち着かなかった。

 昼過ぎに行事が終わり、病院へ駆けつけると、娘は病室のベッドの上でヒーヒー言っていた。婿殿が背中をさすっていた。入院してから既に12時間以上経っていたが、まだしばらく掛かりそうだとの事だった。家内が家事のためいったん自宅へ戻ると言うので、私も一緒に帰った。

 夕方病院へ戻ると、娘はさらに痛みが激しく、苦しそうだった。そのうちに、陣痛室という部屋に移された。いよいよかな、と思ったが、そこからもなかなか進展が見えなかった。夜9時前になって、帝王切開をすることになった。まだだいぶ時間がかかる恐れがあり、妊婦も胎児も相当疲れているようなので、早く出した方が良かろうとの医師の判断だった。

 婿殿に付き添われて、娘は階下の手術室へ移動した。家内と私は、エレベーターの前のベンチに座って待った。産婦人科の病棟は、夜だというのに慌ただしい雰囲気だった。その晩は出産ラッシュで、5人の赤ちゃんが生まれたそうである。満月でもないのにこんなに忙しいのは珍しいと、助産婦さんが言っていた。

 エレベーターのドアが開くのを、じっと待った。ところが30分ほどすると、廊下の奥から小さな移動式ベッドを押す助産婦さんと、婿殿が歩いてきた。別のエレベーターで上がったらしい。家内と共に、だっとベンチから立ち上がり、ベッドの中を覗きこんだ。助産婦さんが「女の子ですよ」と言って、産着をめくって、ちらっと下半身を見せた。確かに女の子だった。婿殿の話では、麻酔をかけてから赤ちゃんが取り出されるまで、ほんのわずかな時間だったらしい。下半身の局部麻酔を打つと、それまで苦痛で参っていた娘は、ケロッと穏やかになったとのこと。出産直後の母子の表情を、婿殿がデジカメで見せてくれた。たしかに娘は、それまでと打って変わって、晴れ晴れとした顔をしていた。

 さらに20分ほどして、娘が戻ってきた。これでようやく安心した。私は「お疲れ様」と言って、労をねぎらった。

 赤ちゃんは新生児室に入り、透明なプラスチックの容器に収納された。心拍数など、いくつかのデータがモニターに表示される。その値が時おり大きく上下するのを、婿殿と家内と私の三人が、気を揉みながら眺めていた。

 7月6日は婿殿の誕生日である。父親と同じ誕生日の女の子は、幸せになると言う。その日を狙いすましたように、しかもたまたま婿殿が当地に来ている日に生まれた。「ずいぶん気が利く赤ちゃんだこと」と家内は言った。

 名前は、婿殿と娘がかねてより予定していた「遥」と付けられた。姓は青木と言う。青木遥。青々とした木々が、遥か先の代まで続くようにとも読める。素敵な名前だと思った。




ーーー7/22−−− 最後に欲しい物


 ラジオ放送に出演したことは、以前このコーナーで触れた。その放送の直後、すなわち午前5時頃、電話が鳴った。しかし、面倒なので無視した。数時間後に掛かってきた電話に出たら、明け方電話をした者だと言った。ラジオを聞いて感じるものがあったので、話をしたいと言う。初めての方で、東北地方に住んでおられる、82歳の婦人だった。

 話をしているうちに、椅子を購入したい意思があるということが理解された。状況は、以下のようなものだった。

 自分は一人暮らしの老人である。年をとると、物を買いたいという気持ちが薄くなり、多少の不便は堪えて、慎ましく暮らしてきた。ところが、番組を聴いて、椅子が欲しくなった。現在使っている椅子は、はるか昔に買った安物家具で、使い心地が悪いのを我慢してきた。番組の話を聴いて、椅子は体にとって大切な物であり、使う時間も長いから、良いものを買うべきだと気付かされた。きちんと作られた、座り心地の良い椅子に身をゆだねる幸せを想像した。この年になって、本当に欲しいものが何かという事が分かった。年金を使って、椅子を購入することに決めた、と。

 自分の身体に合った椅子、自分の感性にかなった椅子というものは、家族のような、あるいはペットのような親しみを覚えるものである。もちろん、体のために良い事も間違いない。良い椅子を使う喜びは、日々の生活の中で大きなものがある。この夫人の判断は正しいと言える。聡明な人だと思った。





ーーー7/29−−− 美味しい魚


 先日長女の婿殿が、父上を連れて穂高に来た。父上は、息子にできた孫に会いたくて、どうしようもなかったそうである。はるばる四国は宇和島からやってきた。

 父上は、初めての内孫を見て、喜んでいた。しかし、長い旅である。かなり疲れたと思う。それでも、夜は良く眠れたそうである。この地は涼しくて、とても過ごしやすいと言った。宇和島では、夏場にクーラー無しで過ごすことはありえないとのこと。ちなみに我が家にはエアコンも扇風機も無い。

 宇和島は海辺の町である。こちら穂高は信州の山里。そんな違いについて話すうちに、海産物の話題となった。豊後水道は魚の宝庫と言われるが、それに面した宇和島も、かなり魚が美味しい土地らしい。

 かの地は鯛の養殖で有名だが、一般人が釣りでも獲るそうだ。父上も釣りが好きで、年に一度はこれくらいの鯛が釣れると、両手を60センチほど開いて見せた。「やはり鯛は美味しいですよね」と調子を合わせるつもりで言ったら、返事は意外だった。鯛は最近あまり人気が無いというのである。特段に美味しい魚だとは感じないと。それより、コアジやキビナゴの刺身の方がよっぽど美味しいと言われた。毎日のように獲れたての魚を食べている地域では、いわゆる高級魚などよりも、ありふれた地魚の方に、美味しさを覚えるのかも知れない。

 ところで、アジの刺身と聞いて、思い出したことがある。学生時代の先輩が結婚した相手の実家は、西伊豆で民宿を営んでいた。結婚した後、初めて実家を訪れて泊まった晩、アジのタタキが食卓に上がった。とても美味だったので、先輩はつい大袈裟に感想を述べたらしい。翌朝から、ドンブリ一杯のアジのタタキが出るようになった。「いくら美味しくても、毎朝ドンブリ一杯食べさせられたら、もううんざりだった」と苦い顔をして語っていた。
 







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